General」カテゴリーアーカイブ

ノンストップブルース集完成

前回の記事で触れた「腰痛べえ」の件だが、実はその原因の一端は、ここ数週間にわたって没頭していた「ある作業」にある。それが、

HDアウトテークをボールにして打ち込んだ、「AIへの1000本ノック」と、生まれた2時間のブルース

自宅スタジオのハードディスクに眠っていたアウトテイク。ただ熱情に任せて弾き倒した友人たちのギターソロの断片。これを、最新の音楽生成AIに徹底的に「フィード」することに没頭していた。プロンプトにはブルースという条件を課した。歌詞も同じく、ブルースっぽい歌詞を作った。

いわば、AIに対する「ブルースの1000本ノック」を開始した。

生成された膨大なフレーズを精査し、エディットし、マスタリングを施す。そうして先日、ついに2時間にも及ぶ「終わらないブルース」のプレイリストを完成させた。

ヘッドフォンから流れてくるその音色は、客観的に見ればデジタル信号の集合体に過ぎない。しかし、目を閉じて聴いていると、妙な錯覚に陥るのだ。

そこに鳴っているギターのトーン、ビブラートの揺れ、そして絶妙な「溜め」のグルーヴ……。それはもはや計算されたアルゴリズムではなく、「ハードディスクの中に住んでいる、バンドマンやギタリストたち」が、今もそこで演奏し続けているかのように聞こえてくる。

20年前の私達が放った熱量を、AIがニューラルネットワークという名の翻訳機を通して、現代に再構築した。これは単なる「過去の再生」ではない。時間軸を超えた、今の私とのセッションなのだ。

この2時間にわたるブルースの泥沼に、私はどっぷりと浸かり、文字通り腰を据えて聞き入ってしまった。キーボードを打つ指を止めたまま、HDの中の「彼」が奏でるチョーキングに耳を傾ける。なるほど、これでは腰も固まろうというものだ。

「やり過ぎだろう」という人もいるかもしれなが、このプレイリスト、自分のプレイリストでもあるので、そのうち腰痛で寝込んだときにでもゆっくりと聴くことにしようと思う。

クリックするとプレビューできます!ジャケットの写真のなかに若かりしころの”わたし”がいると噂されてます。

New Tracksにあげました。2時間ノンストップです。お仕事でお忙しい方は気が滅入る可能性がありますので十分注意してお聴きください。

ようつべ

真夜中の静けさに耳を傾けながら、文字通り「腰」を据えてディスプレイに向き合う。

……と言いたいところだが、今朝は事情が違う。

キーボードに「YouTube」と打ち込もうとして、日本語入力のままだった。「ようつべ」ならぬ、ブラウザの検索窓には「腰痛べえ」とある。

この、どこか江戸時代の隠居の嘆きのような誤変換を前に、私は思わず笑ってしまった。AIがLLMを駆使して文脈を読み解く時代に、私のキーボードはご主人様の腰の不具合を正確に予言してみせたわけだ。

かつて、マイルス・デイヴィスがその晩年、身体の痛みを抱えながらもトランペットを離さなかったように、私もまた、この疼く腰を抱えながらマウスを動かしている。マイルスと違うのは、私の痛みが芸術的苦悩からではなく、単なる加齢による「経年劣化」に起因している点だが。

腰痛の起源を辿れば、自宅スタジオに詰め込んでいた20年分のデータに行き当たる。 かつては、来る日も来る日も友人の弾くギターの音を聴き、ドラムのリズムパターンを考えながら時にはベースの弦を弾いてきた。その結果、手元に残ったのは膨大な量のアウトテイクデータと、着実に蓄積された腰椎への負荷だった。

当時は「これらが日の目を見ることはないだろう」と諦めていた反面、大切にHDに保管していた。そして時代は大きく変わりテクノロジーは私に第二の人生(大袈裟)、正確にはデータの再起動を許可してくれた。

かつて必死で録り溜めた「熱い?」演奏の断片が、最新の生成AIの手によって、完璧なグルーヴへと再構築されていく。それはまるで、長年連れ添った馴染みのミュージシャンが、デジタルという義体を得て蘇ったような感覚だ。

このプロセスにおいて、もはや部屋を唸らせるような爆音を必要としない。必要なのは、良質なプロンプトと、少しの忍耐、そして……座り心地の良い椅子だけである。

今朝はキーボードを打ちながら、そして頭を抱えながら歌詞を作ったり、AIに打ち込むプロンプトを考えたりするのはやめておこう。 代わりに、1980年代の円熟したキース・ジャレットのソロ・ピアノでも聴きながら、クッションの感触に身を委ねることにする。彼の唸り声さえも、今の私の腰にはやさしく聴こえる。それにしても、即興を織り込みながらこんな流れるようにピアノを弾けるなんてすごい!と今更ながら思う。


前後際断

最近、昨日の夕食の献立や、プレイリストから流れる曲名、ミュージシャンの名前がすぐに出てこないことがある。世間ではそれを「老いによる忘却」と呼び、嘆きの対象にするが、私は少し違う解釈をするようにしている。忘却とはいわば、「人生というパンパンに膨れ上がったストレージを効率化し、頭の空き容量を確保するための最適化」ではないだろうか、と。

「忘れる」という行為は一見寂しいものだが、執着すべきでないことを断ち切る勇気でもある。家内が調べてくれた「前後際断(ぜんごさいだん)」という禅の言葉が、その本質を教えてくれた。

沢庵和尚が説いたこの言葉は、時間の流れを一本の紐のように捉えるのではなく、一粒一粒が独立した「点」であると考える思考法だそうだ。 私たちはつい、過去の失敗を悔やみ(過去への執着)、まだ見ぬ老後の不安に怯える(未来への不安)ことで、今という瞬間を単なる「経過点」に格下げしてしまいがちだ。しかし、本来「今」という時間は、前後から切り離された絶対的な存在であるはずだ。ましてや、一刻も時間を無駄にできない「人生のゴールデンエージ」を生きる者にとっては、なおさらである。

この沢庵の境地を、極めて現代的な文脈で体現しているのが、WBCでの白井一幸コーチの姿勢だ。 彼はミスをした選手に対し、「なぜあんなミスをしたんだ」と過去を問うことはしない。「今、ここからどうするか」という一点にのみ、全神経を集中させる。それは我々の日常に置き換えれば、過去の過ちも、あるいはかつての成功体験さえも瞬時に手放し、現時点の行動に没入するということなのだろう。

また、タモリや赤塚不二夫も、この「断ち切る力」の達人だったと家内が教えてくれた。 タモリ氏が赤塚氏の葬儀で読み上げた「白紙の弔辞」は、まさに伝説だ。形式や伝統、そして「悲しむべき過去」という物語からさえも自由になり、その場に流れる「無」という瞬間を肯定する。赤塚氏の「これでいいのだ」という全肯定の哲学は、過去の因果から解き放たれた者だけが到達できる、究極の「前後際断」の宣言だったのではないか。

7年前、ロバート・フロストの詩に影響を受け、『Road Not Taken』というアルバムを制作した。「選ばなかった道」に想いを巡らせていた頃だ。よく言えばロマンティックで内省的、悪く言えば過ぎ去った過去に執着する「ちっちゃな奴」だったのかもしれない。その空気感は、当時の音にも如実に表れている。

「あの時、あっちの道を選んでいたら」というフロスト的な後悔は、脳のメモリを無駄に消費するだけだと最近ようやく気づき始めた。そこに現れた「前後際断」の教え。過去や未来への憂いを断ち切る。それでようやく、今立っている場所の景色や四季の移ろい、あるいは孫の成長や、相方が共に老いていく姿(おっと、これは失礼)を、ありのままに慈しむことができるのだろう。

かつて紡いだ『Road Not Taken』の旋律は、もはやおぼろげでも構わない。 大事なのは、その過程で得た録音の知識やノウハウ、そして何より「今」を刻み続ける感性だけが、この手に残っていれば、、、「それでいいのだ」。

リンク

80代になるとたいていボケるか死ぬ。70代は神様から与えられた特別な時間  林真理子 著

70歳代をかっこよく生きる

沢庵和尚

白井一幸

タモリの白紙の弔辞(全文)

ロバートフロスト Road not Taken

7080recordsアルバム Road not Taken