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「気をつけて」

庄司薫さんが四月に亡くなっていた、と昨日知った。八十八歳。「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を取った人だ、と言われても、正直なところ私には縁遠い。なにしろこちらは、教養とも知性とも無縁の人生を歩んできた。

ただ、ひとつだけ思い出したことがある。高度成長のまっただ中、多感な中高生だった頃、世間ではしきりに「教養とは何か」「知性とは何か」という論争が交わされていた。岩波文庫を本棚に並べておけば一人前、みたいな空気である。私はといえば、難しそうな背表紙を眺めて満足し、中身を読んだかどうかも定かではない。いわゆる積ん読の人だ。教養は背表紙の厚みで測れる、と本気で思っていた節すらある。

さて、もし今この時代に同じ問いを出したら、知性と教養はどんな顔をするのだろう。

考えてみれば、状況はずいぶん変わった。昔は「物知り」が偉かった。年号でも和歌でも、頭に詰め込んだ量がそのまま教養とされた。ところが今や、スマホに訊けば一秒で答えが出る。ついでに言えば、NY TIMESだろうがLONDON TIMESだろうが解説つきで秒速で日本語にしてくれる。知識を貯め込むこと自体は、もう自慢にならない(だろう)。

では、何が残るのか。たぶん、答えを出す力ではなく、問いを考え、問いを選ぶ力。情報の多さではなく、その情報に「ちょっと待てよ」と立ち止まる感覚。便利な答えに飛びつく前に、自分で自分にブレーキをかけられること。

そこまで考えて、私は思わず吹き出した。なんのことはない。答えは、庄司薫の小説のあのタイトルにとっくに書いてあったのだ。

賢いつもりの薫くんに、世界が小さく囁く一言。情報があふれ、機械までが利口になった今だからこそ、私たちに必要な教養とは、自分に向かって静かにこう言えることなのかもしれない。

気をつけて、と。

とっくに断捨離した本が恨みもせず、忘れかけた「なにか」を気づかせてくれたような気がした。

手のひらの真空管

最近、テレビもスピーカーも、どうも音が遠い。もっとも、家人の耳も似たり寄ったりだから、ボリュームは誰に叱られることもなく、際限なく上がっていく。字幕に頼る回数も増えた。そうなると不思議なもので、若い頃あれほど欲しかったバカ高いオーディオ機器への物欲が、潮が引くようにすうっと消えていく。何百万円のアンプも、いまの私の耳には宝の持ち腐れというわけだ。

代わりに、妙なものが聴きたくなった。小学生の頃、初めて耳にした真空管ラジオの音である。あのぼんやりと温かく、どこか湿り気のある響き。理屈ではなく、体が覚えている音だ。

探すうちに、長野で小さなオーディオ機器を手作りしているMHaudioというところに行き着いた。「世界最小の本格オーディオ」を名乗り、CDジャケットほどのスピーカーに、手のひらに乗るアンプをこしらえている。大きく重く、お金を出せば良い音、という常識へのささやかな反逆である。

買い求めてからが長かった。置き場所、向き、壁との距離。あれこれ動かしては聴き、また動かす。家族には「また始まった」と呆れられたが、こちらは真剣だ。そしてある晩、ようやく「これだ」という音が、ふっと部屋に立ち上がった。心地よい、というのはこういうことか。

面白いのはソフトの事情である。レコードもカセットも見事に復活した。ところが中古盤の値は爆上がりで、目当ての一枚はもはや高嶺の花。結局、手持ちにない音源は、ネットのサブスクに頼らざるを得ない。かくして我が家は、骨董のようなアナログと、最新のデジタルが同居する、いささか節操のないハイブリッドと相成った。

真空管のほのかな灯りを眺めながら、最新のサブスクから流れる半世紀前の名盤を聴く。古い音を、新しい技術で。——考えてみれば、いちばん旧式で、温まるのに時間がかかり、高音域が少々あやしくなってきた「装置」は、どうやら私自身らしい。

それでも、灯がともれば、まだいい音で鳴る。上等じゃないか。

MHaudioのアコースティックスピーカーWAON(専用のスピーカースタンが快適にUA-1の温かみのある音を再現してくれる。

SHANLINGの CD Player EC Mini 溜まりにたまったCDを処分しなくてよかった。CDの硬質な音をMHaudioは温かみのある音に変換してくれる。

AIイヤー。ワンコくんもネズミさんも追いつけない激流の中で

「ドッグイヤー」という言葉がある。

犬の1年は人間の7年分に相当する、という俗説から生まれた比喩で、IT業界やインターネット業界の目まぐるしい変化のスピードを表す言葉として、1990年代から広く使われてきた。そして2000年代に入ると、さらに輪をかけて「マウスイヤー」なる言葉まで登場した。マウスの寿命は約1年、つまり人間の60年分の速さで時が流れる、というわけだ。

なるほど、うまいことを言う。

しかし先日、NVIDIAのジェンスン・フアンCEOがCOMPUTEX 2026の基調講演に立ち、ノートPC向けSoCからエージェント型AIの社会実装まで、矢継ぎ早に新製品群を発表するのを見ていて、ふと思った。

この2年ほどのAIの進化を、いったい何と呼べばいいのだろう、と。

ChatGPTが世界を驚かせたのが2022年末。それからわずか2年余りで、AIは「便利なチャットツール」から「自律的に考え、行動するエージェント」へと変貌を遂げた。モデルの性能は数ヶ月ごとに別次元へ跳び上がり、チップはその需要を追いかけるように世代交代を繰り返す。ドッグイヤーでもマウスイヤーでも、もはや追いつかない。「AIイヤー」とでも呼ぶべき、前例のない加速だ。

人生の終盤戦でこの激流を目撃できることは、正直、ワクワクする。SF小説の中にしかなかった世界が、目の前でリアルタイムに展開されているのだ。これほどスリリングな時代に立ち会えた幸運を、素直にありがたいと思う。

だが同時に、複雑な気持ちも拭えない。

今まさに生まれてくる子供たち、あるいは小学校に上がったばかりの子供たちは、この濁流の中を泳ぎ切らなければならない。「将来何になりたい?」という問いの答えが、気づけばAIに代替されている、そんな時代を生きていく。羨ましいような、気の毒なような。

もっとも――よく考えれば、どの時代の親も同じことを思ってきたのかもしれない。蒸気機関が世界を変えたとき、電気が夜を昼に変えたとき、インターネットが距離をゼロにしたとき。それでも人間は、その都度ちゃんと「人間らしい問い」を持ち続けてきた。

きっと子供たちも、AIイヤーをたくましく生き抜くだろう。

そして20年後、彼らはこう言うに違いない。「あのころのAIって、まだ全然たいしたことなかったよね」と。

それを聞く頃、私はもうこの世にはいないだろう。あるいは、となりの奥様と勝手にバーチャルに蘇生されていたりして。それだけは勘弁してほしい。

博報堂の、新卒採用ムービー。コカコーラスタイル「カモンジョイナス!!」的ネット広告。みんなで知恵を絞り出そう、そんな人たち募集。なんか、この激動のAI時代を逆手にとった面白いCFだ。(そういえば、この広告会社によくコンペで負けたっけ)