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脳内OSまさかのWindows化ってかぁ!

もう10数年になる。Windowsのパソコンがずらりと並んでいたオフィスを離れてから、である。あの頃は家では頑なにMacを使い続け、会社に行けばセキュリティにうるさいWindowsに向き合う。そんな二重生活を送っていた。エクセルだのパワポだの、仕事の道具としてのWindowsは仕方なく付き合うものであって、決して好きで触っていたわけではない。

ところが、である。この3ヶ月ほど、生成AIというやつと付き合い始めてから、気がつけば身の回りはWindowsだらけになっていた。あちこちのAIツールやサービスを試すたびに、なぜか導かれるようにWindows環境へと吸い寄せられていく。かつて意地でも避けていたはずのOSに、今や自ら進んで飛び込んでいるのだから、我ながら現金なものだと呆れてしまう。

この年になって二つのOSを使い分けるというのは、正直しんどい。ショートカットキーひとつとっても勝手が違うし、覚えたと思ったそばから忘れていく。若い頃なら鼻歌交じりで覚えられたことも、今は一つひとつが小さな修行のようだ。それでも、である。一度体に覚え込ませてしまえば、「あれ、Windowsって意外と便利じゃないか」と思う瞬間が増えてきた。ファイル管理のしやすさ、AIツールとの相性の良さ、痒いところに手が届く小技の数々。長年の食わず嫌いだったことに、今さら気づかされている。

おかげで最近の私の脳みそは、まるでシャッフル機能をオンにしたプレイリストのようだ。Macの操作体系とWindowsの操作体系が交互に再生され、時々バグって固まる。けれど、これがなかなか心地よい刺激でもある。

そして思う。私のこの年老いた脳みそは、やたらと頻繁にアップデートを繰り返すWindowsのようなものではないか、と。「再起動が必要です」の表示に舌打ちしながらも、放っておけばそのうち自分から催促してくる、あの律儀さである。覚えては忘れ、忘れてはまた覚え直す。効率だけを見れば、褒められたものではないのかもしれない。それでも、更新が止まったパソコンはやがて使い物にならなくなる。頻繁に固まりながらも、それでもアップデートし続けている限り、この脳もまだ現役なのだと思うことにしている。

こんなブログ書いていたら、先ほどM5Ultraのニュースが!! でも高っっああ!! だれがこんなもん買うんだろう???

人生観が変わった、、ようである。

散歩中に顔面を強打し、骨を折った。犯人は段差でも他人でもない、私自身の足だった。あれから3ヶ月。誰にも言っていないが、正直かなりショックだった。七十年も生きてきて、まさか自分が「転倒」「顔面骨折」などという言葉と縁ができるとは。ありえない、ありえない。そう心の中で繰り返しながら、それから二週間ほど、家に閉じこもって鏡の中の無惨な顔を眺める日々を送った。でも、これが存外、人生観をまるごと変える出来事になった。

考えてみれば、一寸先は闇である。まさかコケて顔面骨折するとは、今朝家を出るときには誰も、自分自身すら思っていなかった。物価は上がる、年金は心もとない、どこかの国では戦争が続き、永田町では今日も「検討」という名の先送りが続いている。テレビをつければ不安の見本市だ。増税だ、少子化だ、有事だ、そして身近に起こる大災害だ。それなのに実際に私を派手に転倒させたのは、ロシアでも物価高でもなく、歩道の小石ですらない、ただの自分の油断だった。人は案外、遠くの大きな危機より、足元の小さな不注意にやられるものらしい。

不測の事態というのは、案外いつも足元からやってくる。だからといって、地震用の非常食を三年分備蓄したり、保険を七つ掛け持ちしたりする気にはならない。備えすぎた末に、備えることそのものに人生を使い果たすのでは本末転倒である。健康も、金も、寿命も、結局のところ「なるようにしかならない」。この諦めは、投げやりというより、むしろ静かな覚悟に近い。最低限の防御。杖を持つ、暗い道は避ける、無理な貯蓄計画は立てない、そのくらいで十分なのだ。(運転免許の返納もその一環だが)

政治家たちは今日も遠くの理想やら国際情勢やらを声高に語るが、彼らこそ自分の足元、ものの言い方やタイミング、失言にもう少し気を配ったほうがいいのではないか。遠くばかり見て足元の小石に気づかず、国民ごと派手にすっ転ぶ姿を、私たちはもう何度も見てきた気がする。もっとも、それを言う資格が、実際に道端で転んだ人間にあるかどうかは怪しいところだが。

とはいえ、嬉しいこともある。四十年前にふと思いついた「自宅にサーバーを置く」という夢を、自力で実現できたのだ。今もキッチン裏のパントリーに組んだ棚の上で、六年前の古いMacが時折、唸りを上げている。別室には自分専用のAI(LMStudio)のサーバーも自力で設置した。骨は折れても、小さな執念まで折れるわけではないらしい。(まだまだ成果はあるがまたの機会にしよう)

というわけで骨折以来、私が肝に銘じているのはただ二つのこと。まずは、起こる事態への覚悟。そして世界情勢を憂う前に、まず自分の足元を見ること。大袈裟な備えはいらない。身の丈でいい。ただ、歩幅は少し小さく、視線は少し下に、そして心は少し軽くしていこうと思う。それくらいがちょうどいい。骨はやがてくっつくが、この教訓だけは折れずに持っていたい。

民意という名の丼

こんなブログ記事を書くことになるとは思わなかった。

時の政権が何をしようと、それは民意である。そう言われれば、なるほど選挙で選ばれた以上、文句のつけようがない理屈である。六十年代、七十年代は学生も労働者も街頭に出て、拳を突き上げて世の中を変えようとした。あの熱気は一体どこへ消えたのか。今や国会前でシュプレヒコールを上げても、翌朝のニュースでは天気予報より扱いが小さい。

不思議なのは、どんな強引な法案が通っても、次の選挙でまた同じ顔ぶれが当選してしまうことだ。これは選挙制度がおかしいのか、それとも「おかしい」と首をひねる私のような人間の感覚のほうがずれているのか。どちらだと聞かれれば、正直、答えに窮する。

さて、その政治の世界に君臨する「ドン」なる存在がいる。誰も表立って名指ししないが、確かに存在する。名付けて「どんぶり飯、具たくさん」。博多の丼めしのように(福岡だけのことを言っているのではないが、具だくさんで、汁だくで、しかも一度食べたら病みつきになる――そんな旨みを政治の世界にたっぷり効かせているらしい。もっとも、旨いのは本人だけで、周りは骨の髄までしゃぶられているのだが。

このドンたちの暴挙たるや、目を覆うばかりである。しかし誰も暴かない。記者も評論家も、丼の湯気の向こうで曖昧に微笑むばかり。もう笑うしかない。怒る気力すら、湯気に溶けて消えてしまったかのようだ。

だが、ここで一つ思い出したい。丼というものは、どれだけ具が偉そうに乗っていても、しょせん米の上に乗っているに過ぎないということを。主役はいつだって、下から支える米粒――つまり、我々一人一人の一票である。ドンがいくら「たくさん」名乗ろうと、丼をひっくり返す権利は、いまだ食べる側にある。

さあ、次の選挙はまだまだ先、「おかわり自由」の機会がくれば、今度は具を選ぶのではなく、丼そのものを取り替えてみたいものだ。