民意という名の丼

こんなブログ記事を書くことになるとは思わなかった。

時の政権が何をしようと、それは民意である。そう言われれば、なるほど選挙で選ばれた以上、文句のつけようがない理屈である。六十年代、七十年代は学生も労働者も街頭に出て、拳を突き上げて世の中を変えようとした。あの熱気は一体どこへ消えたのか。今や国会前でシュプレヒコールを上げても、翌朝のニュースでは天気予報より扱いが小さい。

不思議なのは、どんな強引な法案が通っても、次の選挙でまた同じ顔ぶれが当選してしまうことだ。これは選挙制度がおかしいのか、それとも「おかしい」と首をひねる私のような人間の感覚のほうがずれているのか。どちらだと聞かれれば、正直、答えに窮する。

さて、その政治の世界に君臨する「ドン」なる存在がいる。誰も表立って名指ししないが、確かに存在する。名付けて「どんぶり飯、具たくさん」。博多の丼めしのように(福岡だけのことを言っているのではないが、具だくさんで、汁だくで、しかも一度食べたら病みつきになる――そんな旨みを政治の世界にたっぷり効かせているらしい。もっとも、旨いのは本人だけで、周りは骨の髄までしゃぶられているのだが。

このドンたちの暴挙たるや、目を覆うばかりである。しかし誰も暴かない。記者も評論家も、丼の湯気の向こうで曖昧に微笑むばかり。もう笑うしかない。怒る気力すら、湯気に溶けて消えてしまったかのようだ。

だが、ここで一つ思い出したい。丼というものは、どれだけ具が偉そうに乗っていても、しょせん米の上に乗っているに過ぎないということを。主役はいつだって、下から支える米粒――つまり、我々一人一人の一票である。ドンがいくら「たくさん」名乗ろうと、丼をひっくり返す権利は、いまだ食べる側にある。

さあ、次の選挙はまだまだ先、「おかわり自由」の機会がくれば、今度は具を選ぶのではなく、丼そのものを取り替えてみたいものだ。

「気をつけて」

庄司薫さんが四月に亡くなっていた、と昨日知った。八十八歳。「赤頭巾ちゃん気をつけて」で芥川賞を取った人だ、と言われても、正直なところ私には縁遠い。なにしろこちらは、教養とも知性とも無縁の人生を歩んできた。

ただ、ひとつだけ思い出したことがある。高度成長のまっただ中、多感な中高生だった頃、世間ではしきりに「教養とは何か」「知性とは何か」という論争が交わされていた。岩波文庫を本棚に並べておけば一人前、みたいな空気である。私はといえば、難しそうな背表紙を眺めて満足し、中身を読んだかどうかも定かではない。いわゆる積ん読の人だ。教養は背表紙の厚みで測れる、と本気で思っていた節すらある。

さて、もし今この時代に同じ問いを出したら、知性と教養はどんな顔をするのだろう。

考えてみれば、状況はずいぶん変わった。昔は「物知り」が偉かった。年号でも和歌でも、頭に詰め込んだ量がそのまま教養とされた。ところが今や、スマホに訊けば一秒で答えが出る。ついでに言えば、NY TIMESだろうがLONDON TIMESだろうが解説つきで秒速で日本語にしてくれる。知識を貯め込むこと自体は、もう自慢にならない(だろう)。

では、何が残るのか。たぶん、答えを出す力ではなく、問いを考え、問いを選ぶ力。情報の多さではなく、その情報に「ちょっと待てよ」と立ち止まる感覚。便利な答えに飛びつく前に、自分で自分にブレーキをかけられること。

そこまで考えて、私は思わず吹き出した。なんのことはない。答えは、庄司薫の小説のあのタイトルにとっくに書いてあったのだ。

賢いつもりの薫くんに、世界が小さく囁く一言。情報があふれ、機械までが利口になった今だからこそ、私たちに必要な教養とは、自分に向かって静かにこう言えることなのかもしれない。

気をつけて、と。

とっくに断捨離した本が恨みもせず、忘れかけた「なにか」を気づかせてくれたような気がした。

手のひらの真空管

最近、テレビもスピーカーも、どうも音が遠い。もっとも、家人の耳も似たり寄ったりだから、ボリュームは誰に叱られることもなく、際限なく上がっていく。字幕に頼る回数も増えた。そうなると不思議なもので、若い頃あれほど欲しかったバカ高いオーディオ機器への物欲が、潮が引くようにすうっと消えていく。何百万円のアンプも、いまの私の耳には宝の持ち腐れというわけだ。

代わりに、妙なものが聴きたくなった。小学生の頃、初めて耳にした真空管ラジオの音である。あのぼんやりと温かく、どこか湿り気のある響き。理屈ではなく、体が覚えている音だ。

探すうちに、長野で小さなオーディオ機器を手作りしているMHaudioというところに行き着いた。「世界最小の本格オーディオ」を名乗り、CDジャケットほどのスピーカーに、手のひらに乗るアンプをこしらえている。大きく重く、お金を出せば良い音、という常識へのささやかな反逆である。

買い求めてからが長かった。置き場所、向き、壁との距離。あれこれ動かしては聴き、また動かす。家族には「また始まった」と呆れられたが、こちらは真剣だ。そしてある晩、ようやく「これだ」という音が、ふっと部屋に立ち上がった。心地よい、というのはこういうことか。

面白いのはソフトの事情である。レコードもカセットも見事に復活した。ところが中古盤の値は爆上がりで、目当ての一枚はもはや高嶺の花。結局、手持ちにない音源は、ネットのサブスクに頼らざるを得ない。かくして我が家は、骨董のようなアナログと、最新のデジタルが同居する、いささか節操のないハイブリッドと相成った。

真空管のほのかな灯りを眺めながら、最新のサブスクから流れる半世紀前の名盤を聴く。古い音を、新しい技術で。——考えてみれば、いちばん旧式で、温まるのに時間がかかり、高音域が少々あやしくなってきた「装置」は、どうやら私自身らしい。

それでも、灯がともれば、まだいい音で鳴る。上等じゃないか。

MHaudioのアコースティックスピーカーWAON(専用のスピーカースタンが快適にUA-1の温かみのある音を再現してくれる。

SHANLINGの CD Player EC Mini 溜まりにたまったCDを処分しなくてよかった。CDの硬質な音をMHaudioは温かみのある音に変換してくれる。