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古きを感じ新しきを創る(続き)

前回の投稿で触れたCNETの記事「Best-sounding albums to own on vinyl」で取り上げられているアルバムと、それぞれのポイントをまとめまてみた。

筆者のスティーブ・グッテンバーグ氏(オーディオマニアとして知られる)は、1950年代から2010年代まで、特にアナログの黄金期である70年代を重視しつつ、音質の優れたレコードを選出している。

具体的な選定基準や背景は以下の通りにまとめてみた。

選定の基準(なかなかのオタク基準)

  • オーディオ・フォーマットとしての良さ: ビニール(アナログレコード)というフォーマットの利点である「音質の良さ」を最大限に引き出せるアルバムであること 。
  • ジャンルと年代の多様性: ジャズ、ポップ、パンク、エレクトロニカなど多岐にわたるジャンルから、1950年代から2010年代までの作品を選んでいる 。
  • 1970年代の重視: 筆者は「70年代はレコードにとって最高の時代だった」と述べており、リストの中でも1970年代の作品に重きを置いている 。
  • 一貫性と完成度: 例えばトーキング・ヘッズの『Speaking in Tongues』のように、他の有名なアルバムよりも「アルバムとしての一貫性(完成度)」が高いと感じるものを選んでいる 。
  • エンジニアリングの質: スティーヴ・アルビニがレコードで聴くためにエンジニアリングした作品など、制作段階からアナログ盤でのリスニングを意識した録音も評価されている 。

補足的基準(これはもっとオタク的基準)

  • 主観的な好み: 筆者自身、この種のリストは常に「主観的」なものであると認めている 。
  • 歴史的・文化的意義: エイミー・ワインハウスの『Back to Black』のように、特定の時代を象徴する重要なコレクションとしてふさわしいかどうかも考慮されています 。
  • 個人的なリスニング体験: ルー・リードの『Transformer』をハイエンドシステムで聴いた際の「宗教的な体験」のような、強烈な印象を与えた作品も選ばれている 。

オーディオ機器に造詣が深く、長年テレビやオーディオ機器のレビューを担当してきた筆者の視点から、「所有する価値のある、最高のサウンドを鳴らすレコード」が選ばれているという訳だ 。

リストされていたのは21枚の新旧のLPアルバム。このなかから「当時から食わず嫌い、まったく知らなかった、あるいは気に入っていたのだが買うチャンスに恵まれなかった」という視点で4枚〜5枚選んでみたい。(コメントは記事から和訳抜粋)

Amy Winehouse: Back to Black (2006)

21世紀以降にリリースされたアルバムの中でも屈指の傑作と言えるエイミー・ワインハウスの『バック・トゥ・ブラック』は、彼女の悲劇的な人生を琥珀の中で鮮やかに描き出している。

Feist: Let It Die (2004)

1234を収録した『The Argument』の方が記憶に新しいですが、初期の『Let It Die』の方がより豊かで包み込まれるような作品です。『Vinyl Me Please』版は廃盤となっていますが、カナダのレーベルArts and Craftsから復刻版がリリースされています。夜遅く、お気に入りの飲み物を片手に楽しむのが最高です。

Tom Waits: Rain Dogs (1985)

80年代最高のアルバムと主張できるレコードは数多くありますが、このサウンドのアルバムは他にありません。簡素で、奇妙で、キャッチーで、そして究極に楽しい。2024年にウェイツ自身によってリマスターされ、CNETの元スタッフである The Audiophiliacは 、以前よりもさらに良いサウンドだと評しました。

Lou Reed: Transformer (1972)

『トランスフォーマー』は何十回も、『ウォーク・オン・ザ・ワイルド・サイド』は何百回も聴きました。しかし、CES 2018でヤマハのハイエンドシステムでこのアルバムを聴いたとき、宗教的な体験をしました。女性のバックボーカル(1分25秒)は、これまで聞いたことのないほど威圧的で、不思議な3D空間感覚に満ちていました。ロックンロールがこれほど怖くなければ、それはロックンロールではありません

まとめ(小生とまったく同じ嗜好だ)

  • 70年代が最高: 筆者は、1970年代がビニールレコードにとって最高の音質を誇った時代であると考えてる。
  • 主観的な楽しみ: 完璧なオーディオ測定値よりも、聴いた時の「感情的な正直な感想」や「没入感」を重視してる。
  • 再発盤の活用: オリジナル盤にこだわらず、最新の技術(ハーフスピード・マスタリングなど)で丁寧に作られた再発盤の良さも推奨している。

この4枚だけを振り返ってみても、我が音楽人生の原点を垣間見た(聴いた?)ような気がして感激している。

ただ、全部知っていると思いきや、Feistというミュージシャンは知らなかった。彼女のこのアルバムは実にいいいいいいっ!レコードが欲しくて探したが、いまのところ見つかっていない。残念だ。

古きは十分感じた。では、新しきを創る日々に戻るとするか。

古きを感じ新しきを創る

古い日記(といっても書いたり書かなかったり)やブログ(といっても断続的)を読み返すということは、ちょっと前まではなかった。Iphoneの写真がおせっかいにも過去の写真を組み替えてスライドショーを突然出現させるが、以前は見向きもしなかった、というよりなんか嫌だった。ところが最近はどうだ!昔はこんなこと考えていたんだとか、結構マイブームや食べ物の嗜好も変わったな!とか一人ニヤついて読み返している。

「古きを知り新きを知る」「温故知新」OLD NEWというやつだ。最近、この熟語の意味を理解、いや感じ始めている。

自分の趣味としての音楽を振り返り、三度にわたる「アナログへの傾倒」を思い出している。それは決して単なる逆行ではなく、自分の感性というか自分のOSがアップデートを繰り返す中で必要とした、重要なパッチのようなものだ。

第一次:渇望と「物理的な所有」の時代

最初のブームは、選ぶ余地などなかった若き日。音楽を聴くとは、即ちレコードを買いまくることと同義語だった。 輸入盤のシュリンクを剥がすときのあの特有の匂い。ライナーノーツを隅から隅まで読み耽りながら、盤面に刻まれた溝を凝視する。重いLPを抱えて帰る道中の、あの指先に食い込む袋の重みこそが、音楽の価値そのものだったのだ。その直後にレコードと同時進行するのがアナログテープ(主にカセット)によるエアチェック時代だ。この話は別の機会にするとしよう。

第二次:電圧が描く「有機的なノイズ」の時代

やがて時代はデジタルへと移行し、やれCDだ、MDという時代になる。それらの物理的メディアはやがて子供達に引き継がられることとなり、パッケージが溢れかえることとなる。デジタルの音がすっかり当たり前のようになり、時が経つうちになにかもの足りなさを感じるようになる。そしてこの耳は再びアナログの音へと傾く。きっかけは、シンセサイザーだ。 初期のデジタルシンセの整然とした音に物足りなさを感じ、モジュラーシンセの沼にはまり込む。パッチケーブルを血管のように這わせ、不安定な電圧が生み出す「制御不能な唸り」を追い求める日々。自宅スタジオは、ケーブルのジャングルと化し、そこらじゅうから不気味な音が聞こえていた。オシレーターが温まるのを待ちながら、耳でピッチの微細なズレ(デチューン)を調整する。あの「電気の生々しさ」は、DAWの波形編集では決して得られない、生物的な鼓動だと感じていた。

第三次:そして今、CNETから始まった「再定義」

そして今、「第三次アナログブーム」の真っ只中にいる。 きっかけは、7年ほど前に日記にメモしたCNETの記事を読み返したことだった。「デジタル全盛の時代に、なぜ人々は再びレコードを求めるのか?」 そう問いかけているその記事をNotebook LMに整理してもらい、自らの20年分の録音したWavデータと聴き比べたとき、なにか一つの結論に達したような気がした。

今の自分にとってのアナログは、単なる懐古ではない。 膨大なAI生成音楽や、完璧にクオンタイズ(補正)されたデジタル音源に囲まれているからこそ、レコードの針が拾い上げる「揺らぎ」が、砂漠の中のオアシスのように感じられるのだ。72年という歳月を経て、自分の聴力もかつての20kHzまでは届かなくなった。しかし、可聴域を超えたところにあるレコードの倍音成分が、耳を、そして感性を直接マッサージしてくれるような感覚は、むしろ年齢を重ねた今の方が研ぎ澄まされているように感じる。自分の膝の関節がパチパチと音を立てるときがある。そんな老体の出す音に似たスクラッチノイズともに回転するレコード盤を見守る。これもまた粋というものだ。

最新のAI技術を駆使して未来をシミュレートしながら、右手では50年前のジャズ盤に針を落とす。この「時間のレイテンシー」を楽しむことこそが、72歳の私が到達した、最も先鋭的な音楽の嗜み方なのかもしれない。

デジタルは「無限の可能性」を提供してくれるが、アナログは「現在、この瞬間」に引き留めてくれる。 レコードに針を落とす。 そのわずかな時間の重みが、私の「先鋭的なデジタル・シニア」としての生活に、何にも代えがたい、そしてデジタルでは出せない「豊かな解像度」を与えてくれているのだ。

「OSのアップデート」が必要なのは、ソフトウェアだけではない。私たちの感性もまた、古いものと新しいものを等しく扱う、最新のファームウェアへと更新し続けなければならない。それが、「古きを感じ、新しきを発見する」ということにつながるのだと思う。

(続く)

このAudio機器を最近購入した。人生初の真空管アンプにつないだ小型スピーカーから、アナログレコードたちが何か懐かしい音を鳴らしてくれる。ほんといい音だ。

SunoそしてCEOシュルマン氏は何を目指しているのか?

音楽生成AI「Suno」のマイキー・シュルマンCEOの英紙ガーディアンとのインタビュー記事 2026年1月19日

ガーディアン紙のマイキー・シュルマン(Suno AI CEO)へのインタビュー記事を読みながら、かつて経験した幾多の「音楽の分断」を思い出さずにはいられない。

今回のシュルマンのインタビューを読んで確信したのは、音楽という表現が、今まさに「特権的な表現(ゆわゆるプロ)」と「民主化された機能」の二つに、真っ二つに引き裂かれようとしているということだ。

かつてディランがエレキギターを持った時、あるいはマイルスが楽器にエフェクターを繋いだ時、聴衆は二分された。しかし、あの時の分断は、あくまで「表現手法」を巡るものだった。だが、今のSunoやUdioがもたらしているのは、もっと根源的な、「作り手の存在を脅かしている。では、その脅かしている者たちはどこに存在するか」というとても分かり難い断絶だ。

先日の記事で触れた通り、Bandcampは「人間による表現」「制作者の権利」を守る防波堤となる道を選んだ。これは、家内が弾くピアノように、練習の痕跡や、時には計算通りにいかない「揺らぎ」に価値を見出す世界だ。そこには、自宅スタジオで録り溜めてきたギターのアウトテイクにある「指先の感触」や「ミスタッチの刹那さ」さえも正当に評価される文脈がある。

対してシュルマンは、音楽を「誰もが即座に生成し、消費し、作り替えられる単なるデジタル素材」へと解体しようとしている。彼にとって音楽は、鑑賞の対象である以前に、コミュニケーションの「潤滑剤」なのだ。彼はインタビューで、音楽を「ポップ」か「スロップ(ゴミ)」かという議論に矮小化することを拒むが、その本質は、音楽から「1万時間の苦闘」という重力感を取り除こうとすることにある、とうそぶく。

20年分の演奏データをAIに学習させようと試みるのは、決して「自分を自動化」したかったからではない。むしろ、その膨大なデータの蓄積が、AIという巨大な鏡(ミラーリング)を通した時に、どのような「他者」として立ち上がってくるかにすごく惹かれたからだ。

学習の結果、どこか聞き覚えのある自分の曲の間奏を完璧にトレースし、しかも曲の構成にうまく取り入れているAIの曲を聴いた時、奇妙な驚きと興奮を覚えた。

一方は、創った音楽を「魂の記録(Record)」として捉えもう一方は音楽を「瞬間の波形(Wave)」の組み合わにしかすぎないとする。この二つの陣営は、もはや音楽を通して同じ言葉を使っていても、違う言語を話しているに等しい。

シュルマンは、自分が音楽界の「処刑人」と呼ばれることを恐れていないようだ。むしろ、その悪役ぶりを楽しんでいる節さえある。

だが、60年ちかくこの世界の様々な変化を見届けてきた者から見れば、この世界の音楽はそう簡単に処刑されるほど弱くはないと思う。シュルマンが撒き散らした火種が、この音楽の世界にどのような化学反応を起こすのか、もう少し眺めてみることにしたい。もちろん、PCのデスクトップ環境で、20年前の作った曲を解体しながら。