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短気は損気

「ちょっと、なんでこんなに時間かかってんの」

昨晩、Macのソフトウエアのアップデートが終わらなくて、思わずひとりごちてしまった。相手は機械である。怒っても意味がない。それはわかっている。でも、口をついて出てしまう。

歳をとると、丸くなると聞いていた。人生経験を積んで、多少のことには動じなくなる——そんなイメージを勝手に抱いていた。ところが現実はどうも逆らしい。電車が遅れる。レジの列が動かない。メールの返信がこない。若いころは気にも留めなかったことが、いちいち引っかかる。こんなことで夫婦間でお互いがキレ合っている(こともある)。

どうやらこれ、医学的にも説明がつくらしい。加齢とともに脳の前頭葉——感情にブレーキをかける部位——の働きが少しずつ衰えていく。つまり短気は「性格の問題」ではなく、「脳の問題」でもあるというわけだ。なんだ、私のせいじゃないじゃないか。……と、責任転嫁したくなるのも、また前頭葉の仕業かもしれないが。

ただ、気づいたことがある。短気を起こしたとき、たいてい自分が疲れているか、余裕をなくしているかのどちらかだ。イライラは、自分の内側からのサインなのかもしれない。

「短気は損気」とはよくいったもので、怒って得したためしがない。でも、ゼロにしようと躍起になるより、「ああ、今日も少し余裕がなかったな」と気づけるようになれれば、それで十分じゃないかと思うようになった。(というか気持ちを落ち着かせる努力をするようになった)

丸くなるのは、もう少し先の話にしておこう。

この季節になると必ずみなさんに見てもらうビデオ。

自宅から見た桜を題材に作った自作ビデオ。BGMもスタジオに篭って一晩で作った。この頃が一番アバンギャルドだった(笑)

「沼」

人間には、定期的に「沼」にハマってしまうサイクルがあるのだろうか。

気づけばそこにいる。気づけばお金が消えている。気づけば夜中の2時に画面を見つめている。そして翌朝、後悔するどころか「今日も続きをやろう」と思っている。これが沼だ。恐ろしい場所である。そして、これほど豊かな場所もない。

数年前、わたしはアナログモジュラーシンセという沼に落ちた。

モジュラーシンセとは、音の部品——発振器、フィルター、エンベロープ——をケーブルで物理的につなぎ、音を「設計」する楽器である。楽譜も、コードも、関係ない。そこにあるのは電気信号と、自分の耳と、底なしの好奇心だけだ。

「誰も聴いたことのない音を出したい」。その一心で、モジュールを一個、また一枚と買い足した。机の上のラックはどんどん重くなり、財布はどんどん軽くなった。総額を計算したことは、今もない。計算してはいけない類の数字というものが、人生にはある。

それでも後悔はしていない。あの頃の奮闘が、「音とは何か」を体で覚えさせてくれた。沼とは、授業料の高い学校なのだ。

そして今、新しい沼にいる。AIである。

最初はおそるおそるだった。「ChatGPTというものが流行っているらしい」程度の入り口だった。ところが触り始めると、止まらない。音楽生成、画像・動画生成、データベース構築、文章の壁打ち相手、挙げ句の果て人生初めてのコード学習である——AIにできることの幅が、日に日に広がっていく。まるで、ケーブルをつなぐたびに新しい音が生まれたあの頃と、どこか似ている。

ただ、前回と決定的に違う点がひとつある。

多様な機材が、いらない。

モジュラーシンセ沼では、新しいことを試すたびにモジュールを買わなければならなかった。しかし今回の沼では、一台の優秀なマシンがあれば事足りる。(といってもこの一台に行き着くまでに結構な投資はいるが)音楽も、映像も、データ構築も、文章も、すべて同じ画面の中にある。

正直に言おう。AIの沼に落ちるには、案内人が必要だった。

YOUTUBEには、世界中の「先に落ちた人たち」がいた。難解な概念を噛み砕いて説明してくれる動画が、無数にある。深夜に「なるほど、そういうことか」と膝を打つ夜が、何度あったことか。

そしてClaudeをはじめとするAIチャットは、わからないことをその場で聞ける「話せる教科書」だった。恥ずかしい質問も、基礎的すぎる疑問も、嫌な顔ひとつせず答えてくれる。「こんなことも知らないのか」と言われる心配が、ない。これは年輩者にとって、想像以上にありがたいことだ。

かつてなら専門書を買い、スクールに通い、詳しい人を探すしかなかった。今は、画面に向かって話しかけるだけでいい。沼への入り口が、こんなにも低くなった時代に生きていることを、素直に喜びたいと思う。

振り返れば、人生は沼の連続だった。

沼にはまるたびに、新しい言語を覚えた。新しい知識がどんどん増える。自分が思っていたより、まだまだ好奇心があることを知った。そして、いかに勉強してこなかったかも思い知る。

AIという今回の沼がどこまで続くのか、まだわからない。地図のない大陸を歩いている感覚は、あの頃のモジュラーシンセと同じだ。ゴールが見えないから、今更立ち止まれない。

そしていつかまた、次の沼が現れるだろう。

その時わたしはきっと、またケーブルを——いや、キーボードを叩きながら、夜中の2時に画面を見つめているはずだ。

沼は怖い。でも、沼のない人生はこの先もっと怖い。

Ayler’s Module

モジュラーシンセを駆使して作ったオリジナル曲。モジュラーの一つを触っている時突然地面を揺るがすようなサックスに似た音が出現した。急ぎレコーダーを回しながら作った曲。そのサックスに似た音のニュアンスがアルバートアイラーに似ていたのでこのタイトルとなった。オリジナル曲2019年制作。2022年1月にYoutube用にこの動画を作った。

主要機材など

#ExpertSleepers#Disting#ZwobotTribute to Albert Eyler by the sound coincidentally generated by #ExpertSleepers#Disting. Video created by #Zwobot based on the original track “Ayler’s Module” released our bandcamp site 2019.

AI動画のはしりのような映像制作ツールZwobotで作った。懐かしい。

「何事にも面白がる」老人力を鍛えよう

毎朝、6歳の愛犬ジャックラッセルテリアのリードを持ちながら歩く山道は、70代の体には少しばかり堪える勾配だ。だが、息を切らしながらも足を進める時、ふと、かつて手にした赤瀬川原平氏の『老人力』を思い出す。 当時は「物忘れを『老人力がついた』と笑い飛ばすとは、面白いことを言うものだ」と感心しつつも、どこか他人事のように捉えていた。老化や認知機能の低下は抗えない現実であり、せいぜい周囲が明るく受け入れるための「方便」だろう、と。

ところが、近年、続々と発表される医学的知見は、赤瀬川氏の直感が正しかったことを証明しつつある。老化を前向きに捉える「肯定的向老意識」を持つ人は、そうでない人に比べて認知症の発症リスクが低く、寿命そのものも延びるという研究報告が続いているのだ。 「老人力」を意識的に面白がることは、単なる気休めではない。それは自分自身の脳と身体を健やかに保つための、実効性のある「技術」だったのである。

提唱者の赤瀬川氏自身は77歳でこの世を去った。決して長命ではなかったかもしれないが、病床にあっても人生を面白がる姿勢を崩さなかったという。 夕食前、家内が「ブルグミュラーを久しぶりに弾いた」と少し疲れ気味ではあったが満足している様子で戻ってきた。まさに毎日の鍛錬、上達への意欲。老いに嫌気がさしたり、衰えていく自分に自己嫌悪を抱いたりすることほど、心身の健康を損なうものはないと思った。日々見る鏡の中の変化や、昨日できたことが今日はおぼつかなくなるもどかしさ。それらさえも「未知の体験」として面白がるゆとりこそが、今まさに必要なのだ。

私は決めている。八十の大台に乗ったとき、その時は甘んじて、いや堂々と「老人」と呼ばれよう。その称号を、長い旅を終えた者の勲章として受け入れ、赤瀬川流の「老人力」を存分に発揮して笑って過ごしたい。 だが、今はまだその時ではない。やんちゃなジャックとの散歩も、まだまだ衰えない音楽制作への意欲や、新しい技術や技能への好奇心も、すべては「まだ老人ではない」私という旅人が続けている、現在進行形の旅なのだから。

NHK「あの人に会いたい(赤瀬川原平)