風の言葉を聴く

早朝の散歩。世の中がようやく慌ただしく動き出す時間帯だ。

車がまだ少ない道を、わんこと並んで歩く。リードを握る手はまだ汗ばんではいない。信号も人も少ない散歩道、町はひどく静かで、足音と鳥のさえずりがだけが聞こえる。

そんな道すがら、電信柱のそばを通りかかったとき、妙な音がした。

カラン、コロン。

柱に結びつけられた金属片が、風に揺られて鳴っていた。何かの目印か、あるいは誰かが気まぐれに括り付けたのか、由来はわからない。ただ、風が吹くたびにカラン、コロンと涼しげな音を立てている。

わんこが、ぴたりと止まった。

耳をピンと立て、その音の出どころをじっと見つめている。首を少し傾けて、真剣な顔で。まるで「いま、何か言いましたか」とでも言いたげな顔で。

そこへ隣を歩いていた家内が、ぽつりと言った。

「風が喋る言葉を、言語化してるんじゃない?」

なるほど、と思った。うまいことを言う。

昨今、「言語化」という言葉をよく聞く。感情を言語化せよ、体験を言語化せよ、強みを言語化せよ。ビジネスの場でも、自己啓発の本でも、SNSでも、とにかく何でも言葉にしろという圧力がある。言語化できないものは存在しないも同然、とでも言わんばかりの世の中だ。

だが、風の言葉はどうだろう。

カラン、コロン。それを日本語に直せと言われても、誰も困るだろう。「爽やかな初夏の朝の、少し湿り気を帯びた東風が、重さ不明の金属片を不規則に揺らして発した音」とでも書けば、言語化にはなる。でも何かが死んでいる気がする。

わんこの「ぴたりと止まって耳をたてる」という行為のほうが、よほど正確にあの音の本質を捉えていた。言葉にはならないが、ちゃんと受け取っている。そういう言語化もある。

言葉にならないものを、言葉にしなくていい朝がある。

散歩を再開すると、どこからか緑の匂いがしてきた。梢がざわりと揺れ、遠くで鳥が鳴いた。わんこはもう電信柱のことなど忘れて、鼻をひくひくさせながら歩いている。

「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」

ふとそんな句が浮かんだ。目で、耳で、舌で、季節を丸ごと受け入れる。余計な言葉はいらない。ほんとうに、いい季節だ。

歌詞を聴いていると「あのタバコの苦味ともなんとも言えないきつい匂いと味、そして行ったこともない都市の風景」が頭に浮かんでくる。ムッシュの名作中の名作。(彼は晩年このギターを愛用していた、Steinberger GL-2T、ヘッドレスギターの名作)