最近、昨日の夕食の献立や、プレイリストから流れる曲名、ミュージシャンの名前がすぐに出てこないことがある。世間ではそれを「老いによる忘却」と呼び、嘆きの対象にするが、私は少し違う解釈をするようにしている。忘却とはいわば、「人生というパンパンに膨れ上がったストレージを効率化し、頭の空き容量を確保するための最適化」ではないだろうか、と。
「忘れる」という行為は一見寂しいものだが、執着すべきでないことを断ち切る勇気でもある。家内が調べてくれた「前後際断(ぜんごさいだん)」という禅の言葉が、その本質を教えてくれた。
沢庵和尚が説いたこの言葉は、時間の流れを一本の紐のように捉えるのではなく、一粒一粒が独立した「点」であると考える思考法だそうだ。 私たちはつい、過去の失敗を悔やみ(過去への執着)、まだ見ぬ老後の不安に怯える(未来への不安)ことで、今という瞬間を単なる「経過点」に格下げしてしまいがちだ。しかし、本来「今」という時間は、前後から切り離された絶対的な存在であるはずだ。ましてや、一刻も時間を無駄にできない「人生のゴールデンエージ」を生きる者にとっては、なおさらである。
この沢庵の境地を、極めて現代的な文脈で体現しているのが、WBCでの白井一幸コーチの姿勢だ。 彼はミスをした選手に対し、「なぜあんなミスをしたんだ」と過去を問うことはしない。「今、ここからどうするか」という一点にのみ、全神経を集中させる。それは我々の日常に置き換えれば、過去の過ちも、あるいはかつての成功体験さえも瞬時に手放し、現時点の行動に没入するということなのだろう。
また、タモリや赤塚不二夫も、この「断ち切る力」の達人だったと家内が教えてくれた。 タモリ氏が赤塚氏の葬儀で読み上げた「白紙の弔辞」は、まさに伝説だ。形式や伝統、そして「悲しむべき過去」という物語からさえも自由になり、その場に流れる「無」という瞬間を肯定する。赤塚氏の「これでいいのだ」という全肯定の哲学は、過去の因果から解き放たれた者だけが到達できる、究極の「前後際断」の宣言だったのではないか。
7年前、ロバート・フロストの詩に影響を受け、『Road Not Taken』というアルバムを制作した。「選ばなかった道」に想いを巡らせていた頃だ。よく言えばロマンティックで内省的、悪く言えば過ぎ去った過去に執着する「ちっちゃな奴」だったのかもしれない。その空気感は、当時の音にも如実に表れている。
「あの時、あっちの道を選んでいたら」というフロスト的な後悔は、脳のメモリを無駄に消費するだけだと最近ようやく気づき始めた。そこに現れた「前後際断」の教え。過去や未来への憂いを断ち切る。それでようやく、今立っている場所の景色や四季の移ろい、あるいは孫の成長や、相方が共に老いていく姿(おっと、これは失礼)を、ありのままに慈しむことができるのだろう。
かつて紡いだ『Road Not Taken』の旋律は、もはやおぼろげでも構わない。 大事なのは、その過程で得た録音の知識やノウハウ、そして何より「今」を刻み続ける感性だけが、この手に残っていれば、、、「それでいいのだ」。
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