人生観が変わった、、ようである。

散歩中に顔面を強打し、骨を折った。犯人は段差でも他人でもない、私自身の足だった。あれから3ヶ月。誰にも言っていないが、正直かなりショックだった。七十年も生きてきて、まさか自分が「転倒」「顔面骨折」などという言葉と縁ができるとは。ありえない、ありえない。そう心の中で繰り返しながら、それから二週間ほど、家に閉じこもって鏡の中の無惨な顔を眺める日々を送った。でも、これが存外、人生観をまるごと変える出来事になった。

考えてみれば、一寸先は闇である。まさかコケて顔面骨折するとは、今朝家を出るときには誰も、自分自身すら思っていなかった。物価は上がる、年金は心もとない、どこかの国では戦争が続き、永田町では今日も「検討」という名の先送りが続いている。テレビをつければ不安の見本市だ。増税だ、少子化だ、有事だ、そして身近に起こる大災害だ。それなのに実際に私を派手に転倒させたのは、ロシアでも物価高でもなく、歩道の小石ですらない、ただの自分の油断だった。人は案外、遠くの大きな危機より、足元の小さな不注意にやられるものらしい。

不測の事態というのは、案外いつも足元からやってくる。だからといって、地震用の非常食を三年分備蓄したり、保険を七つ掛け持ちしたりする気にはならない。備えすぎた末に、備えることそのものに人生を使い果たすのでは本末転倒である。健康も、金も、寿命も、結局のところ「なるようにしかならない」。この諦めは、投げやりというより、むしろ静かな覚悟に近い。最低限の防御。杖を持つ、暗い道は避ける、無理な貯蓄計画は立てない、そのくらいで十分なのだ。(運転免許の返納もその一環だが)

政治家たちは今日も遠くの理想やら国際情勢やらを声高に語るが、彼らこそ自分の足元、ものの言い方やタイミング、失言にもう少し気を配ったほうがいいのではないか。遠くばかり見て足元の小石に気づかず、国民ごと派手にすっ転ぶ姿を、私たちはもう何度も見てきた気がする。もっとも、それを言う資格が、実際に道端で転んだ人間にあるかどうかは怪しいところだが。

とはいえ、嬉しいこともある。四十年前にふと思いついた「自宅にサーバーを置く」という夢を、自力で実現できたのだ。今もキッチン裏のパントリーに組んだ棚の上で、六年前の古いMacが時折、唸りを上げている。別室には自分専用のAI(LMStudio)のサーバーも自力で設置した。骨は折れても、小さな執念まで折れるわけではないらしい。(まだまだ成果はあるがまたの機会にしよう)

というわけで骨折以来、私が肝に銘じているのはただ二つのこと。まずは、起こる事態への覚悟。そして世界情勢を憂う前に、まず自分の足元を見ること。大袈裟な備えはいらない。身の丈でいい。ただ、歩幅は少し小さく、視線は少し下に、そして心は少し軽くしていこうと思う。それくらいがちょうどいい。骨はやがてくっつくが、この教訓だけは折れずに持っていたい。