古い日記(といっても書いたり書かなかったり)やブログ(といっても断続的)を読み返すということは、ちょっと前まではなかった。Iphoneの写真がおせっかいにも過去の写真を組み替えてスライドショーを突然出現させるが、以前は見向きもしなかった、というよりなんか嫌だった。ところが最近はどうだ!昔はこんなこと考えていたんだとか、結構マイブームや食べ物の嗜好も変わったな!とか一人ニヤついて読み返している。
「古きを知り新きを知る」「温故知新」OLD NEWというやつだ。最近、この熟語の意味を理解、いや感じ始めている。
自分の趣味としての音楽を振り返り、三度にわたる「アナログへの傾倒」を思い出している。それは決して単なる逆行ではなく、自分の感性というか自分のOSがアップデートを繰り返す中で必要とした、重要なパッチのようなものだ。
第一次:渇望と「物理的な所有」の時代
最初のブームは、選ぶ余地などなかった若き日。音楽を聴くとは、即ちレコードを買いまくることと同義語だった。 輸入盤のシュリンクを剥がすときのあの特有の匂い。ライナーノーツを隅から隅まで読み耽りながら、盤面に刻まれた溝を凝視する。重いLPを抱えて帰る道中の、あの指先に食い込む袋の重みこそが、音楽の価値そのものだったのだ。その直後にレコードと同時進行するのがアナログテープ(主にカセット)によるエアチェック時代だ。この話は別の機会にするとしよう。
第二次:電圧が描く「有機的なノイズ」の時代
やがて時代はデジタルへと移行し、やれCDだ、MDという時代になる。それらの物理的メディアはやがて子供達に引き継がられることとなり、パッケージが溢れかえることとなる。デジタルの音がすっかり当たり前のようになり、時が経つうちになにかもの足りなさを感じるようになる。そしてこの耳は再びアナログの音へと傾く。きっかけは、シンセサイザーだ。 初期のデジタルシンセの整然とした音に物足りなさを感じ、モジュラーシンセの沼にはまり込む。パッチケーブルを血管のように這わせ、不安定な電圧が生み出す「制御不能な唸り」を追い求める日々。自宅スタジオは、ケーブルのジャングルと化し、そこらじゅうから不気味な音が聞こえていた。オシレーターが温まるのを待ちながら、耳でピッチの微細なズレ(デチューン)を調整する。あの「電気の生々しさ」は、DAWの波形編集では決して得られない、生物的な鼓動だと感じていた。
第三次:そして今、CNETから始まった「再定義」
そして今、「第三次アナログブーム」の真っ只中にいる。 きっかけは、7年ほど前に日記にメモしたCNETの記事を読み返したことだった。「デジタル全盛の時代に、なぜ人々は再びレコードを求めるのか?」 そう問いかけているその記事をNotebook LMに整理してもらい、自らの20年分の録音したWavデータと聴き比べたとき、なにか一つの結論に達したような気がした。
今の自分にとってのアナログは、単なる懐古ではない。 膨大なAI生成音楽や、完璧にクオンタイズ(補正)されたデジタル音源に囲まれているからこそ、レコードの針が拾い上げる「揺らぎ」が、砂漠の中のオアシスのように感じられるのだ。72年という歳月を経て、自分の聴力もかつての20kHzまでは届かなくなった。しかし、可聴域を超えたところにあるレコードの倍音成分が、耳を、そして感性を直接マッサージしてくれるような感覚は、むしろ年齢を重ねた今の方が研ぎ澄まされているように感じる。自分の膝の関節がパチパチと音を立てるときがある。そんな老体の出す音に似たスクラッチノイズともに回転するレコード盤を見守る。これもまた粋というものだ。
最新のAI技術を駆使して未来をシミュレートしながら、右手では50年前のジャズ盤に針を落とす。この「時間のレイテンシー」を楽しむことこそが、72歳の私が到達した、最も先鋭的な音楽の嗜み方なのかもしれない。
デジタルは「無限の可能性」を提供してくれるが、アナログは「現在、この瞬間」に引き留めてくれる。 レコードに針を落とす。 そのわずかな時間の重みが、私の「先鋭的なデジタル・シニア」としての生活に、何にも代えがたい、そしてデジタルでは出せない「豊かな解像度」を与えてくれているのだ。
「OSのアップデート」が必要なのは、ソフトウェアだけではない。私たちの感性もまた、古いものと新しいものを等しく扱う、最新のファームウェアへと更新し続けなければならない。それが、「古きを感じ、新しきを発見する」ということにつながるのだと思う。
(続く)
このAudio機器を最近購入した。人生初の真空管アンプにつないだ小型スピーカーから、アナログレコードたちが何か懐かしい音を鳴らしてくれる。ほんといい音だ。