音楽生成AI「Suno」のマイキー・シュルマンCEOの英紙ガーディアンとのインタビュー記事 2026年1月19日
ガーディアン紙のマイキー・シュルマン(Suno AI CEO)へのインタビュー記事を読みながら、かつて経験した幾多の「音楽の分断」を思い出さずにはいられない。
今回のシュルマンのインタビューを読んで確信したのは、音楽という表現が、今まさに「特権的な表現(ゆわゆるプロ)」と「民主化された機能」の二つに、真っ二つに引き裂かれようとしているということだ。
かつてディランがエレキギターを持った時、あるいはマイルスが楽器にエフェクターを繋いだ時、聴衆は二分された。しかし、あの時の分断は、あくまで「表現手法」を巡るものだった。だが、今のSunoやUdioがもたらしているのは、もっと根源的な、「作り手の存在を脅かしている。では、その脅かしている者たちはどこに存在するか」というとても分かり難い断絶だ。
先日の記事で触れた通り、Bandcampは「人間による表現」「制作者の権利」を守る防波堤となる道を選んだ。これは、家内が弾くピアノように、練習の痕跡や、時には計算通りにいかない「揺らぎ」に価値を見出す世界だ。そこには、自宅スタジオで録り溜めてきたギターのアウトテイクにある「指先の感触」や「ミスタッチの刹那さ」さえも正当に評価される文脈がある。
対してシュルマンは、音楽を「誰もが即座に生成し、消費し、作り替えられる単なるデジタル素材」へと解体しようとしている。彼にとって音楽は、鑑賞の対象である以前に、コミュニケーションの「潤滑剤」なのだ。彼はインタビューで、音楽を「ポップ」か「スロップ(ゴミ)」かという議論に矮小化することを拒むが、その本質は、音楽から「1万時間の苦闘」という重力感を取り除こうとすることにある、とうそぶく。
20年分の演奏データをAIに学習させようと試みるのは、決して「自分を自動化」したかったからではない。むしろ、その膨大なデータの蓄積が、AIという巨大な鏡(ミラーリング)を通した時に、どのような「他者」として立ち上がってくるかにすごく惹かれたからだ。
学習の結果、どこか聞き覚えのある自分の曲の間奏を完璧にトレースし、しかも曲の構成にうまく取り入れているAIの曲を聴いた時、奇妙な驚きと興奮を覚えた。
一方は、創った音楽を「魂の記録(Record)」として捉え、もう一方は音楽を「瞬間の波形(Wave)」の組み合わにしかすぎないとする。この二つの陣営は、もはや音楽を通して同じ言葉を使っていても、違う言語を話しているに等しい。
シュルマンは、自分が音楽界の「処刑人」と呼ばれることを恐れていないようだ。むしろ、その悪役ぶりを楽しんでいる節さえある。
だが、60年ちかくこの世界の様々な変化を見届けてきた者から見れば、この世界の音楽はそう簡単に処刑されるほど弱くはないと思う。シュルマンが撒き散らした火種が、この音楽の世界にどのような化学反応を起こすのか、もう少し眺めてみることにしたい。もちろん、PCのデスクトップ環境で、20年前の作った曲を解体しながら。